「小さな生き物」


  生き物は必ず死を迎える。こんな書き方で始めてしまいましたが、不思議な気持ちになったのは、父の日に子供たちにプレゼントされて水槽に入れていたコッピーが今朝死んでいるのを発見したからです。体長2センチほどの魚ですが、2年ほどは生きていたように思います。今は一匹になって寂しくなってしまいましたが、小さな生き物だからそんなに永くは生きないだろうと思っていたのが、案外長くいたのでよくぞ生きていたという思いです。
 もちろんその間、水や水草は手間をかけて交換していました。生きている間は元気にしていたので、死ぬなんて想像していなかったのですが、こうやって死んだ魚を見ていると、命はどうやったら事切れるのかと不思議な気持ちにさせられたのですが、「コッピーが死んでるよ」と家族に言っても案外関心ないような「そうなの」くらいの反応しか返って来ませんでした。プレゼントしてくれた子供たちは全く興味なさそうでした。
 外見は問題なさそうなのでより不思議な気がしました。事故だとか病気だとかで死んでしまうのであれば、強制的な死なので死が判るのですが、自然、少なくとも私が勝手に思っているだけの自然な死は、生物の命は限られていて、やがて心臓が止まるのですが、なぜ止まるのか、それが不思議なのです。
 2センチの生き物で、こんなことを思っている自分ですが、ほかの人には全くの他人事です。どうでもいいことです。だけど、なぜ生きていることから、死んでしまうことに変わってしまうのでしょうか?
 人間の脳死の判定が話題になっていますが、肉体の死はやはり心臓が止まってしまったときでしょう。脳が働かない状態で死と決めてしまう脳死は、親族には認められないことだと思います。肉体が生きているということは、生きていると等しいと考えても仕方ないように思うのですが、あえて脳死を認めろと言う必要もないように思いました。
 自分とその死を迎えている人との関係だけで、法律だとか、医者だとかが何と言おうと自分がその人をどう感じるかでいいのではないかと思いました。私の小さな生き物の死も私がどう思うかで、他人が何を思ってもいいのです。ここで一番言いたかったのは、なぜ心臓は自然に止まるのだろうかということです。
 なぜエネルギーが切れてしまうのでしょうか。エネルギーを補給してももう燃えなくなるのは、なぜでしょうか。元大臣の中川昭一氏の死についても、なぜ今死んでしまうのでしょうか。あの方だって肉体はまだまだ使えたはずです。それでも心臓は止まるのです。もし事故死でなければ不思議です。
 目の前に無傷で寝ているような遺体を見たら、多分私は生と死の境が分からなくなると思います。コッピーの死を話題にしましたが、こんな小さな生き物でも、死んだ姿を見ると、どうしたんだろうと思うのです。それは毎日目にしていたからというのもあります。
 今回の話題は私にしか関心がもてないような話題でした。ここのところ雨が降ったりやんだりの天気が続いています。自然には勝てませんから、共存だけしか選択がないわけですが、人間同士だけがお互い好き嫌いを言って生活しているような気がします。変に分かってもらえるという勘違いがあるから尚のこと面倒です。もともと分からないと思えば、腹も立たないわけです。
 人は相手のことを分かろうとはなかなかしません。分かり合えないままで終わってしまうこともあるのだと思いますが、まったくもって不思議です。
 子どもを見ていると、体だけが大きくなっていくのですが、中身は子どものままです。精神は年齢だけでは成長しないのがよく分かります。