「人生万事塞翁が馬(じんせいばんじさいおうがうま)」


 中国のことわざですが、『ある時、占いの得意な老人の飼っている馬が北の胡の方角に逃げていってしまいました。この地方の馬は高く売れるので、近所の人が老人を慰めに行ったところ老人は残念がっている様子もなく 
 「このことが幸福にならないとも限らないよ」と言ったそうです。
しばらくして、逃げだした馬が立派な駿馬をたくさん連れて帰ってきました。また近所の人たちがお祝いを老人にいうと、老人は首を振って
 「このことが災いにならないとも限らないよ」といったそうです。
またしばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。また近所の人たちが慰めにいくと、老人は平然として
 「このことが幸福にならないとも限らないよ」といったそうです。
1年が経過したころ胡の異民族が城塞に襲撃してきました。城塞近くの若者はすべて戦いに行きましたがその多くはその戦争で死んでしまいました。しかし老人の息子は足を骨折していたので、戦いにいかずに済み、無事でした。』という話しです。
 こんな話しですが、ネットで解説を調べても、それぞれ違った解説がなされていましたが、大意は老人にもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福とは予想できないものである。」という事を表現するたとえのようです。
  これと同じようなことわざで「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざがあります。これは、幸福が来たと思っても、それは不幸のきっかけで、不幸が来たとおもってもそれは、幸せの前兆であったりで、不幸だからそれが続くものでもなければ、幸福だからそれが続くものでもないということですね。
  ある本を読んでいると「幸福が永遠に続かないのと同じで、不幸がずっと続くものでもない」などは、今が辛いと感じたときに支えられた言葉でした。
  またある本には、「しあわせは与えられるものではないし、しあわせを探してもしあわせという形はなにも見つからなかった。」そんな文章が書かれていました。幸せは、幸せと思えば幸せで、そう思わなければ、どんなことも幸せでなくなるわけですから、どう感じるかということになります。
  いわゆる人間が何千年も昔から感じてきたことは、今も引き継がれていて、人間同士のかかわりの中で生まれてくる感情だと私は思っています。ただ、何千年たっても幸せと感じたり、不幸と感じたりする感情は昔も今も同じだということだと思います。
 中国の昔のことわざからはじめましたが、そのことわざは前漢の時代ですから紀元前202年ごろだから日本の弥生時代に相当するようです。幸福でありたいというのは人間の願望なのかもしれませんが、死ぬまでしあわせを感じないのもさびしいので、どんな時でも私は「しあわせだ」と感じるようにしています。
 やはり出来事をどうとらえるか、あるいは考えるかだとすれば、今の時代を生きている自分としては、景気に大きく会社が左右されながらも、今が谷底だと思うことで次の手を考え実行していく選択しかありません。