「42.195キロ」

 市民ランナーとして3年。その間フルマラソン出場は3回。フルのマラソン出場も今回で4回目を迎えます。今振り返ってみると、42.195キロという距離を走ることができる体力が自分にあったことが驚きでもあるし、喜びでもあります。
マラソンというものは一人で走って結果を出すので、全ての責任は自分にあるわけですから、極めてわかりやすい競技です。
フルマラソンを走ってみて、その距離と時間とをあらためて考えてみると、例えば高橋尚子さんのようなランナーは2時間20分ぐらいで走りきってしまうのですが、私の場合は、松竹梅の梅の下のランナーですから、4時間17分がベストですので、トップランナーの倍の時間がかかっているわけです。
 なんでもそうですが、4時間も同じ運動をするというのは、2時間で終わってしまう人に比べたら、恐らく集中力が無くなっていく分だけ余計辛いような気がします。私が42.195キロをどう走るかというと、最初の5キロを何分で走るか決めて、そのタイム内を目指すことだけを考えています。時間にして23分ぐらいです。このくらいはまだ余裕があるからあっという間なのですが、10キロが走れると次の20キロを1時間ぐらいで走ろうということになってくるのです。20キロ走ると、次の10キロをやはりイーブンペースで走ることを考えるのですが、時計を気にしながら「そろそろ3時間かなあ、もう3時間も走っているのか」などと、ここら辺で時間の経過していく速さが短く感じるか長く感じるかによって、その時の調子がわかります。時間が長く感じるようだと気持ちがのっていないので結構辛くて、「なんでこんなことをやっているんだ」とか、前を走っているランナーの走りが気になり「あんな格好でよく走れるなあ」とか思い始め、ただ足を前に出しているだけという感じで当初の完走予想タイムに及ばないとなると、本当に投げ出したくなります。「ここで降りようかな、もう少しいったら降りようかな」と思ってしまいます。でも、早く終わりたいという気持ちから「歩いたらもっと時間がかかる。それだったら走るしかない」と思い直し、結局走っているのです。
 行くも地獄、戻るも地獄、に思えるのですが、終わってみると「最後まで走れて良かったな」ということになって、結構満足感を得られます。終わってしまうと、途中のプロセスはもうどうでもよくなってしまっていて、もうあの苦しかったことなど忘れているのです。結局「ああ、やれた」ただそのことだけのために走っているのかもしれません。
人は何故あんな苦しいことを忘れてしまえるようにできているのか不思議です。でも、もし完走できなかったら、案外「あんな苦しいことはやりたくない」なんてことになりそうです。自分が満足できた瞬間に、恐らく今までの苦しさや嫌なことを忘れられるのかもしれません。
 今、何かをやっていて、嫌だなあとか苦しいなあとかいう思いは、それをやり遂げた瞬間に消えていくような気がします。10年かけてやっと達成できたようなものがあるとすると、その「完成した」と思った瞬間に、10年の苦労なんてどうでもよくなっているものなのかもしれません。一番いけないのは、「苦労している、辛い」、と思っているさなかにやめることかもしれません。何故なら、その辛さや苦労が消えないで残ってしまいそうだから。それはちっともハッピーではないですよね。