突然の死 

 10月16日の午前5時ごろに、私の知り合いが亡くなった。倒れてから4日目に死んでしまった。死因は蜘蛛膜下出血であったが、49才という年齢を考えると、これからまだ働けるだけに、なんだかいたたまれない気持ちになってしまう。今だに、すぐにも現われそうに思う。こうもあっけなく死んでしまうと、なぜなんだと思う。
 いったい人間が死を迎えるというのは、どういうことなんだろう。その前の週まで話していた彼とは、もう会話することができないのです。同じ釜の飯を食べた仲なので、なんとも言えない思いです。 死というのはどうすることもできないことで、自分で死を選ぶこともできない。生と死は自分の意志に関係ないので、神の意志なのかもしれないが、49才の死は早すぎる。

 死んだ彼に聞くことはできないけれど、その人の役割はなんだったのだろう。自分の役割を考えた時、家族を養い、会社を経営することで、雇用を創出し、やはり人間社会に貢献することが、自分の役割だと思っている。社会に何かを提供し続けることができる限り、会社をつぶすことはないと思っている。

 最近特に思うのは、人間が成長するのは、人間との関わりでしかない。動物から癒されることはあっても、人間として成長することにはならないだろう。書物で知識を増やすことはできるが、それで人間が成長したということになるのだろうか。 一人で生きていくことなど、この社会ではできないはずだが、一人で生きていけると思っている人だって、一歩外に出れば、いろんな人の助けを借りているのです。食事をしようと思えば、レストランに行くだろうし、着るものが欲しければ、買えるのです。でもそれらの物を供給してくれるのは、社会だし、人間ですから、まったく関わりを持たずに生きたいと思えば、無人島で暮らすしかない。誰もがよりよい生活の為に生きていこうと考えたら、そこには他人に対しての思いやりが必要だし、他人に対して、何かを与えていくことではないかと考えている。

 これからの社会は、自分の為に生きるというのではなく、他人の為に生きる。誰かに何かをやってあげる。そんな社会になればいいと思っている。それはやる行為に価値があって、その代償を求めることではないだろう。
 人の死はわれわれに何を与えてくれるのか。恐らくそれは、無というものを教えてくれる。死んだ相手に話し掛けても答えてくれない。相談もできない。いっしょになって楽しむこともできない。なにもない。残された人は、悲しみを癒すのも、喜びを分かち合うのも、すべてが心の中の会話で、耳からも目からも感じることのない魂との会話になってしまう。その時実感するものがなければ、寂しく感じるのではないだろうか。五感で感じていたものができなくなると、あとはこころでしかない。こんなに寂しいものはないと思ったりもする。

 今、私たちは生きた人間社会で生活している。それは実感できる社会で、いやなことも楽しいことも、つらいと思うことも感じることのできる社会です。無ではない。実感のある世界に生きていると思う。多くの人と関わりを持つことで、より豊かな生活を送ることになるような気がします。