「マラソン続編」


  前回この欄では「マラソンから生まれたもの」を書いたが、今回はその後、100キロのウルトラマラソンに参加して初完走できたので続編にしてみた。今年も6月25日に開催されたサロマ湖ウルトラマラソンに4回目の参加をしてきた。過去2回はチェックポイントでの時間制限オーバーと、去年が73キロでエネルギー切れであえなくリタイヤ。今年こそはと臨んだ大会だったが、見事完走できた。
 完走する時というのは、スタートする以前から色々な人の声援が完走の兆しのように思えてくる。また、13時間近く走っていると、全く知らない人と並走して会話したりする。案外それが気分転換になって体の疲れを和らげてくれたりとか、会話から残り時間の勘違いに気が付いたりとか、身の回りの事象全てが自分の完走に向けて引き起こされているように思えてならないから不思議だ。今まで気が付かなかったお地蔵さまを見つけたりしたのも不思議だった。
 前半の60キロを制限時間より30分ぐらい早く通過できたことも並走した人との会話力のおかげだ。最後の20キロはこれまた所属クラブのメンバーがゴールまで並走してくれた。結果として完走できたのだが、私の実力からすると目一杯の走りで余裕なんか何もない状態で、13時間近くを走り続けるには限界を超えていたかもしれない。しかし完走を手に入れることが出来たことは大きな収穫だった。自分の実力以上のものを引き出してくれたものは、実は自分の力だけではなく周りの人の会話力が大きく作用していると思っている。
 完走することと途中でリタイヤすることの精神的な差はやはり大きい。過去3回で毎回60キロまでは走っているので、それでも立派だよと言ってくれる人は何人もいる。私にとっては100キロという距離を達成できたかどうかだから、気持ちの問題なので、他人には推し量れないと思う。
 過去の自己タイムはこれくらいだから、100キロを走るとなると、60キロ地点ではこれくらいで走らないといけない、でも残りはスピードを落とせなくなるので、どう考えても無理だと思ってしまう。これが普通だ。これが論理的思考だろう。これだといつ挑戦できるだろうか。もしかしたら1度もチャレンジすることなく終わってしまうことだってあるかもしれない。それはそれでよいのだと思うが、私のDNAは可能性に賭けるタイプのようだ。
 ウルトラの世界に入ってみると、当然かなりの練習がなければ完走は無理だが、私みたいにギリギリの練習しかしていない人間には、精神的なものが大きく左右することを実感した。限界に来ていると思った時には無心になると案外切り抜けられるものだということを感じた。
 結果を引き出すのは自分の気持ちだし、リタイヤする時の気持ちとそこを切り抜けた時の気持ちの差は紙一重だと思う。リタイヤするか継続するかは決定的な要因、例えば捻挫したとか、時間的に全く無理な状態だとかを除けば、無心にやり続けるか否かによって決まる。
 もういいやという思いが心に隙間をつくってしまい、それがだんだん大きくなって本当にやめてしまうことに体が動いてしまう。そこで気分を転換できたりするとまた意欲が出てくる。それが人の声援だったり会話だったりと、ちょっとしたことだったりする。無心になれたら体だけは動いているので、結果として目標を達成できることになるのではないか。
 人はあれやこれやと考えるからストレスが溜まったりするのだろうし、先に進めなくなる。また、自己の論理的な帰結が将来を狭めて将来性がないなどと思ったりもする。限界に来たと思ったらひたすら無心にやり続けることで、結果として自分が感じた限界を超えているような気がする。そして何かが支えてくれていると信じ続けることが大切だ。終わってみると限界を作っていたのは自分だと気づくのだが。これは限界を超えなければ永遠にわからないことだけれども、どうしてよいか答えが見つからないときは、無心に何かに打ち込むことが大切なのかもしれない。