「心の置き場所」


  塩沼 亮潤氏の話をしてみたい。この方の著書、「人生生涯小僧のこころ」(ISBN978-4-88474-803-6)を読んでみると大峯千日回峰行といって、奈良県吉野山の金峰山寺蔵王堂(キンプセンジザオウドウ)から大峰山と呼ばれる山上ヶ岳までの片道24キロ、高低差1300m以上の山道を16時間かけて一日で往復し、合計四万八千キロを歩き続けるという修行を行った人の話である。この大峯千日回峰行を達成できた人が吉野・金峰山寺1300年の歴史の中で二人目となるのだから、大変な偉業だと思う。
 この本を読んで感じたことは、修行の凄さもあるのだが、人の体というのはどれだけタフにできているかということです。私がウォークで50キロ歩き終わってみると、階段の登り降りが辛いし、足は疲れて足指とかは痛いし、それで次の日もその次の日も歩くとなると100日でも歩ける自信など全くない。それを毎日48キロ、それも山道で登り24キロ、下りで24キロが、時間換算で、平坦な道にして98キロは歩いている勘定になると思う。それを1000日間なのだから、その体力、精神力は相当なものだと想像できる。
 この行は途中でやめることが許されなくて、やめることは死を覚悟しなければならない、すさまじい行だということがこの本に書いてあった。だから、どんなに体調が悪くてもやめることができないわけで、下痢で食べたもの飲んだものが全て下から出てしまう状態の時でも歩き通したことだとか、虫歯で歯が痛くてもその痛さを我慢してでも歩き通したことだとか、熱が39度を超えることがあっても歩き通したことだとか、ひざに水が溜まっても歩き通したことだとかを読んでいると、どんなに熱があろうが、目が痛くて見えなくなろうが、虫歯で歯が痛くなろうが、その虫歯を我慢すると、終わって歯医者に診てもらったら中が空洞になっていたというほどだから、虫歯を放っておくとそうなるのだなと感じたのだが、要するに、どんなに体調が悪くても歩き通すことができることと、そして体は腹痛だろうが、虫歯だろうが、足が痛かろうが、その痛さを超えると、何事もない元の体になるのだということをこの本から読みとることができた。
 私はこの本を読んで、大峯千日回峰行のすさまじさを感じるとともに、人間の体のすごさを感じた。この本はこれでもかこれでもかと体のあちこちが悲鳴をあげている中で、それを我慢して押し通していく先には、体は元に戻るものなのだということを教えていただいたように思う。医学的に正しいかどうかはわからないが、少なくともこの塩沼氏はその痛さに耐えて満行された事実は私に感銘を与えた。
 もう一つ興味深いこととしては、本のタイトルにある「人生生涯小僧のこころ」と書いてあるとおり、この自然やお山と向き合い、毎日、決して同じでない自然の変化を感じ、来る日も来る日も歩き続けてこられた人が、999日に書かれた日誌に、「今の心が一番いいなあ。この心がずっと変わらないといいなあ。体が言うことをきくなら、ずっと歩いていたい。もしこの体に限界がないなら、今の心のまま永遠に行が続いて欲しい。人生生涯小僧でありたい」である。
 本の中の一節だが、『いろいろな迷い、苦しみというものを抱えての私の生活ですけれど、何ゆえに迷い、何ゆえに苦しんでいたかということを自分自身の過去を振り返ってみたときに、心の中で自分自身を都合のいい場所に置き、都合よく事が運ぶように考えて、それが思い通りにならないと、まるで被害者のごとく悩み苦しんでいたわがままな自分がいたように思います。そんな自分に懺悔して、反省という方向に心が動いたとき、迷いや苦しみは、結局自分の心が作っていたのだと気づきました』。
 これが千日回峰行を達成された人のお言葉だった。すべては心が作りだしたものだと言っているのだが、楽しくあるのも心の持ち方だし、苦しいと思うのも心の置き場所の問題であるなら、私は、心の置き場所を明るくて、楽しい場所に常においておきたい。