「気づき」


 私の知人が2ヶ月ほど前に交通事故に遭い、全治6ヶ月の重症を負いました。これほどの重症にもかかわらず、本人は奇跡的に助かった超幸運男だと言っていました。最近のメールにも、今回の事故で奇跡的に助かった自分は超幸運男でこの幸運をいかに活かすか、世のため、ひとのため、愛する人のためと書かれていました。自分のためと書いてなかったのでまだいい。
 交通事故は不運ですが命の助かった自分は幸運だ、と言っていましたが、全治6ヶ月はかなりの重症です。それにもかかわらず幸運だ幸運だと言っている彼は、きっと何かを今回の事故で感じたのかもしれません。これから控えているリハビリや再手術も乗り切ることができると思います。
 気づきという言葉がありますが、彼もまた何かに気づいたのかもしれません。事故という生死紙一重のところから奇跡的に助かったことに対して、命拾いをしたことで彼が何かを感じたのだと思います。
 以前「なぜ働くのか」というので田坂広志氏の本を紹介しましたが、その中で、働くことに対して、死生観、世界観、歴史観を持てと書いてありました。私の知人の場合は、輸送トラックの下敷きになって、車輪の間をくぐって頭だけ外に出たと言っていましたから、奇跡的なことだと思います。彼が世のため、人のため、愛する人のためという言葉を発することが、いままでの彼とどこか違う気がしています。そしてこの事故で彼に何かを気づかせたこと、それがその命拾いをしたこととつながっているとすれば、彼が体験から得た死生観でもあるのだと思います。
 今彼は不自由な身で6ヶ月は満足に歩けないわけですから、こんな辛いことはないと思います。僕だったらもっとショックだと思います。足が元のように戻らないのではないかとか、普通に歩くことが出来なくなるのじゃないかとか。もしそうなったとしても、今の彼は、足があるだけ幸せと感じるでしょう。おそらく、死んだかもしれないのに奇跡的に生きていたということで、本当に幸運だと感じているのだと思います。
 色々なことのありがたさに気づかないでいることが多いのですが、気づくのはいつも失った時だとか、失わないまでも痛い思いをした時です。痛い思いをしたから分かるというものではないですが、どうしたら人のありがたさに気づくか、五体満足のありがたさに気づくか、今の自分のありがたさに気づくか、それは感じればいいだけかもしれません。幸せだ、幸せだと言っていると、本当に幸せになるものだと思います。ありがたい、ありがたいと言ってると、やはりありがたい気持ちになるのだと思います。逆を言えば逆になるのだと思います。僕はハッピーでいたいから、ありがたいという気持ちを持ち続けています。
 私の知人は唯物主義ですので、こういった精神的な類の話は信じないタイプでしたが、事故に遭遇してから、生かされているとか、感謝するという言葉を出すようになりました。今自分が生きていて、頭がしっかりしていることがよほどうれしく思えたのかもしれません。
 気づかない自分がどうしたら気づけるか、多くの人と交わることも一つだと思っています。人が教えてくれるように思います。人が声をかけてくれる自分にならないと教えてくれませんね。そのためにも、自分ひとりで沈み込まないことも大事だと思います。